「吾輩は猫である」のモデルになった猫

小説「吾輩は猫である」のモデルになった猫は、実際に夏目家に飼われていた猫というのが定説になっている。夏目家には、元野良猫の飼い猫がおり、この猫には名前が無かったという。小説の書き出しの「吾輩は猫である。名前はまだ無い」という一節とも一致する。続きを読む
| 東京 ☀ | 吾輩は猫である

ペンネーム「漱石」

「漱石」というペンネームのいわれについても書いておこう。
じつは、「漱石枕流」という四字熟語があるのだ。
「漱石枕流」には「負け惜しみの強い人」という意味がある。
中国の晋の時代に、孫楚という負けず嫌いな人物がいた。「枕石漱流」、つまり、「石に枕(まくら)し、流れに漱(くちすす)ぐ」とすべきところを誤って「漱石枕流」と書いてしまった。
それを指摘されると
「石に漱ぐは歯を洗うため、流れに枕するは耳を洗うため」=石(いし)に漱(くちすす)ぎ流れに枕(まくら)す、とこじつけたことから、負け惜しみが強いことのたとえとして使われるようになった。

正岡子規との出会い

1889年、22歳のときに同窓生として正岡子規に出会う。正岡子規は漱石に、大きな文学的、人間的影響を与えることになる。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』の巻末に漱石がその批評を漢文で書き、本格的な親交が始まった。
このときに初めて漱石という号を使った。
同年9月、房州(房総半島)を旅したときの模様を漢文でしたためた紀行「木屑録」(ぼくせつろく)の批評を子規に求めるなど、しだいに交流が深まっていった。漱石の優れた漢文、漢詩を見て、子規はその才能に驚いたという。漱石と子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年、子規が亡くなるまで続いた。

学業

複雑な幼少期を過ごした漱石だったが、漱石文学の基礎は、青少年期に育まれていた。
家庭状況から小学校を数回転校していた漱石は、12歳の時、東京府立第一中学校正則科(現在の日比谷高校)に入学した。明治維新後間もない時期であったが、すでに大学入学には英語の試験があった。しかし、府立第一中学校には受験英語の授業がなかったことに不満を持ち、また、漢学や文学を志すため2年で中退し、漢学私塾二松学舎に入学する。後に漱石の小説で見られる儒教的な倫理観や東洋的美意識、江戸的感性が磨かれた機会になったようである。しかし、文学を志すことを兄が反対したため、二松学舎も数か月で中退することになる。

2年後の1883年、神田駿河台の英学塾成立学舎(現在の成立学園とは無関係)に入学した。大学予備門(のちの一高)を受験するには英語が必須だったためである。
翌年の1884年、無事に大学予備門予科に入学。1886年、大学予備門は第一高等中学校に改称。この年、漱石は盲腸炎になり、予科二級の進級試験が受けられず落第する。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活した。学業に励み、ほとんどの教科において首席だったという。特に英語がずば抜けて優れていたそうである。

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